musical instrument 『不思議の国のポケットトランペット』
- 2013/06/16
- 04:40

ポケットトランペットの発祥は、戦前にイギリスのベッソン社が軍隊携行用に小さなベルで製作されたというのが定説。通常のトランペットB♭菅を2重巻きにして、サイズを小さくしたものをポケットトランペットと呼ぶ。携帯に便利だが吹奏に多少の抵抗感がある。
僕が演奏しているポケットトランペットjupiter jpt- 416。ポケットトランペットは今まで多くのトランペッターから敬遠され、邪道扱いされてきた楽器だ。確かに通常のトランペットに比べるとコントロール性に欠けているしピッチも悪い。ハイノートもキンキンしている。
「宴会にもってこい」なんて決まり文句で販売されていたり。「変な癖がつくからお勧め出来ません…」だとか…。巷で耳にするポケットトランペットに対する発言は何故か通常のトランペットを前提とした「二流楽器」のレッテルが見え隠れしているように思えてならない。
僕はポケットトランペットはコルネットやフリューゲルホルン同様、ポケットトランペットと言う独立した楽器だと思う。あのコントロール性の悪さからくる無骨でフリーな『完成された美しい失敗』的サウンドはポケットトランペットでなければなし得ないサウンドだし、持ち運びの利便性から来るあのコンパクトでキュートな姿にルイス=キャロルの「不思議の国のアリス」のような危険をはらんだ新しい世界への『旅』を感じてしまう。
僕は言いたい。音程が悪くても良いじゃないか。音が裏返るのはとってもチャーミングだ。何が悪いというのだ。人間の関与する全ての事物は必ず失敗を前提としている。リアリティを求めるならば失敗や不安定を表現の一部に含める努力をするべきだ。表面的な完璧さを求めてどうする?
『完成された美しい失敗』は唯一無二で生々しく最もスピリチュアルな『美』である事を僕は知っている。
そもそも現代の多数派が抱く『美』と言う解釈に問題があるんじゃないのか?今、表沙汰になっている殆んどは安易にソフィスケートされた退屈なものが多い気がする。セロニアスモンクの童心と悟りが混同したピアノプレイスタイルやリースクラッチペリーの神と交信する混沌としたダブミックスが賞賛された人間の豊かな価値観や想像力はいったい何処にいってしまったのだろう?
良い音楽の核心はもっと直感的でありながら複雑で屈折した所にあると思う。
音楽も人も同じだ。
しかしテレビやインターネット業界の商業主義者が金儲けの為に観客の欲望を利用して作った間違った美意識や価値観やモラルになにひとつ疑問を抱かず洗脳され、そこに投資している人が多いのが悲しい現実だ。
洗濯板やスプーン、バケツやネジに魔法をかけ楽器として扱ったミシシッピーデルタのジャグバンドが残した偉大なメッセージを21世紀の今考え直さなければならない。彼等の音を奏でる執念、歓喜は権力からの抑圧、貧困、人種差別に屈することはなかった。日々の苦しみや悲しみ喜びや怒りを音楽に変え、天に捧げる衝動はいつの時代であっても平等に与えられると彼等は証明している。
楽器や音楽の形式に一流も二流も無い。ネガやポジの概念も無い。譜面なんて読めなくて良い。コードを知る必要も無い。どれだけ不完全で聞き苦しい音楽であったとしも、表現者が自身を犠牲にし、命懸けで個を宇宙に解き放つ覚悟をもった音ならばそのサウンドは必ず重要なメッセージをはらんだ価値のある響きである事を僕は疑わない。
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